俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会

各自治体首長のエッセイ

#23:垂井と芭蕉

岐阜県垂井町長 早野博文
(会員誌「HI」No.154掲載)

 垂井町は、岐阜県の南西部に位置し、南方に南宮山、西方に伊吹山を望み、中央部には揖斐川水系の相川が流れる自然豊かなまちです。古くは美濃国府が置かれ、美濃国一の宮である南宮神社が鎮座するなど美濃国の中心地として発展しました。また、豊臣秀吉の軍師として著名な竹中半兵衛公が城を構えたほか、関ヶ原合戦の際には東西両軍の陣が多く敷かれ、江戸時代には、中山道の宿場町、美濃路の追分として栄えるなど、主要な街道が交叉する交通の要衝として栄えた歴史・文化の豊かなところでもあります。
 俳聖松尾芭蕉が最初に垂井を訪れたのは、『野ざらし紀行』の旅の時、貞享元年(1684)で、江戸から伊賀、大和、山城、近江路を通って美濃に入り、関ヶ原の常磐塚、不破の関から垂井を経て、大垣の俳人、谷木因を訪ねています。2 度目は貞享4 年(1688)から翌年にかけて行われた『笈の小文』の旅の後、岐阜の俳人からの要請で中山道を関ヶ原、垂井、赤坂を経て岐阜へ向かいました。3 度目は元禄2 年(1689)の『おくの細道』の旅で垂井を通り、大垣で旅を結んでいます。4 度目は元禄4 年(1691)、本龍寺住職の規外を訪れ「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」の句を詠み、記念として雪見の像を贈っています。また、その際、垂井の地名の起源ともされる垂井の泉を訪れ「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」の句を残しています。その後、この芭蕉の滞在を記念し、以哉派の第7 世道統・野村白寿坊と本龍寺住職・里外が文化6 年(1809)に「作り木塚」をつくり、「美濃垂井規外がもとに冬籠もりして 作り木の 庭をいさめる しぐれ哉 はせを」の句碑を建立しました。また、安政2 年(1855)には、同門の第15世道統・国井化月坊と本龍寺住職世外が「作り木塚」の隣に時雨庵を建て、芭蕉の忌日にはここで俳階が営まれていました。平成30年には、有志の方々のご尽力により、時雨庵が建築当時に近い姿で再現され、「時雨庵俳句大会」が開かれています。
 俳句は「座の文芸」、気心の知れた仲間が、一つの作品を合作する共同作業の文芸と言われます。垂井は、芭蕉の前にも連歌が盛んで、言葉で戯れる土壌が育まれていました。現在、本町内では、先の「時雨庵俳句大会」を始め、各地域で様々な句会が催されており、また、各所には句碑が多く点在しているなど、日常の中で俳句に触れ、その世界を楽しむことができます。
 このように先人たちが守り伝えてきた魅力ある俳句文化が、貴協会の活動を通じてユネスコ無形文化遺産に登録され、世界中で多くの人々が楽しめるようになることを切に願っております。