#30:芭蕉から抱一、大観へつながる日本文化
東京都足立区長 近藤やよい
(会員誌「HI」No.161掲載)
足立区は東京23区の北東部に位置する人口69万人の都市です。令和4年度には区制90周年を迎えました。区の南部に位置する千住地域はかつて日光街道千住宿として繁栄しました。いまは年間乗降客数約120万人と国内有数のターミナル駅である北千住駅や、東京藝術大学千住キャンパスなど五つの大学が揃い、宿場の歴史の香りを残しつつ若者が闊歩する街へと変貌を遂げています。この千住宿の歴史文化を代表する作品が松尾芭蕉の『おくのほそ道』です。
千住について、芭蕉は次のように記述しています。
「千じゅと云ふ処にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに、離別の泪をそゝく」と心のうちを述べ、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」との俳句を掲げます。そして「是を矢立の初めとして、行く道猶すゝまず」と続き、旅の第一歩として旅行用の筆記具「矢立」の使いはじめ、つまり江戸を出た俳句であることを印象付けます。
この『おくのほそ道』の俳句文化は千住宿に根付きました。このことを最近の足立区の調査で明らかになった文化史からご紹介しましょう。
江戸後期の俳人建部巣兆(1761~1814)は句会を作り、同い年で俳人・江戸琳派を代表する絵師である酒井抱一(1761~1829)と友人となります。抱一は俳句が盛んな千住を「先立る水口幣や苗代田」と詠みました。芭蕉を水田に引き入れる水の口に立てる御幣に見立て、苗代のように俳句文化が育つ千住を表現しています。そして巣兆と抱一の交友は「千住の琳派」に発展し、俳画をはじめ琳派が得意とした草花図の多彩な美を生みだしました。
明治を迎えても俳句文化は芸術の基軸として存在し続け、句会を催した千住の旧家は、横山大観らの画家、其角堂永機らの俳人、政治家で漢詩文を得意とした松方正義らが色紙に書いた作品を集めた色紙帖という冊子をまとめました。
このように俳句は時代を超えて明治の社会でも広がりを見せ、そして現代へとつながります。足立区の作品群を見ていくと、『おくのほそ道』から様々な日本文化に枝葉が広がり、俳句が日本文化の礎であることを実感させます。ぜひ文化の広がりに思いを馳せながら俳句を愉しんでください。